日蓮宗佐賀県青年会結成四十周年記念インド仏跡参拝報告
日蓮宗佐賀県青年会会長
佐賀市 國相寺住職 松島正英
この度、日蓮宗佐賀県青年会結成四十周年記念事業と致しましてインド仏跡参拝を企画し、昨年の十一月十六日〜二十七日に至る十二日間、参加団員二十九名、インドに渡り、お釈迦様の縁の地を巡拝して参りました。
慈眼六号七号八号に於いてお釈迦様の特集を組み、ご誕生から涅槃までの、ご一生をご紹介致しましたが、私達一行は、そのお釈迦様のご一生を実際に自分の眼で見、肌で感じて感動を覚え帰って参りました。今号では、その体験の一端をご報告したいと思います。十一月二十三日までの仏跡のみご報告させて頂きます。
午後十二時十分、福岡国際空港をインドに向けて出発。
バンコクを経由し、インド現地時間午後十時二十三分に到着致しました。日本とは時差が三時間あり、日本では、既に翌日の午前一時半頃にあたり、初日から強行軍でありました。
デリーから国内線でパトナへ移動し、バスに乗りかえ、お釈迦様最後のご説法の地ヴァイシャリへ向かいました。この地には、お釈迦様に水を供養する為に猿が池を掘ったという池があり、又お釈迦様十人弟子のお一人の多聞第一と言われた阿難尊者のストゥーパ(お墓)が一緒にお祀りされていました。参拝後霊鷲山のあるラジギールへ移動。
早朝よりホテルを出発し、今回の団参の目的の一つでありました霊鷲山参拝へと向かいました。霊鷲山は、山というより丘と表現した方がよい程、思ったより低いお山でございました。麓より約二十分位で山頂に着きます。団員の皆さんは、団扇太鼓に合わせお題目を唱えながら、一歩一歩感激を踏みしめ登詣されていました。山頂に着くと香堂(お釈迦様が当時、お説法でお使いになったお堂)跡があり、高さ五、六十センチの高さのレンガで囲まれ、そこには、供物や線香などがご供養されていました。私達は、その香堂遺構を前にして「法華経結縁報恩感謝の法要」を五十分程営みました。お経の流れる中、団員の方々は、今自分が三千年前にお釈迦様が、この霊鷲山に於いて真実の法華経をお説きになられたこの地で額づき礼拝させて頂いているのだと思われた時、感慨無量のお気持ちになり感激を新たにしておられました。法要が終わる頃には、太陽も随分昇り、朝日を拝む事が出来ました。法要が終わり下山をし、その後は、お釈迦様に帰依をされたマガダ国の王、ビンビサーラ王牢獄跡、竹林精舎を見学しました。又当日は、五世紀に創建された全アジアの仏教研究、教学の中心でありました古代インドの仏教大学、ナーランダ大学跡を見学。ここは、東西二五〇メートル、南北六〇〇メートルに及ぶ壮大さで、十二世紀にイスラム教徒に破壊されました。玄奘三蔵が滞在された七世紀には一万人もの学僧がここに住んでいたそうです。又興味深い事が、大学跡奥には、智慧第一と言われました舎利弗尊者のストゥーパがあり、この跡地に舎利弗尊者が祀ってある事もうなずけました。この日は、ブッダガヤで宿泊。
お釈迦様がお悟りをひらかれ成道された地がブッダガヤであり、仏教に於ける最も重要な聖地であります。お釈迦様は、菩提樹の下でお悟りをひらかれましたが、そこにはその菩提樹と台座(今剛宝座)を祀る大菩提寺というお寺があります。俗にブッダガヤの大塔とも呼ばれ、高さが五十二メートルもある塔が建てられており、最初の祀堂が紀元前三世紀のアショーカ王の頃に建てられ、現在の形になったのは、ほぼ四世紀以降の事だと言われています。私達一行は、その大菩提寺の西側にある菩提樹の木と禅定された金剛宝座の所で一読し、偉大なるお悟りに報恩のご回向を申し上げました。菩提樹の木は、さすがに三千年の歴史を感じ堂々としており、金剛宝座にはきれいな花が供養されていました。ここでの感激も一入でございました。
ブッダガヤ参拝後、お釈迦様が成道される前、前正覚山という山で六年回苦行をなされ、その修行の後、尼連禅河という河で沐浴をなされましたが、その尼連禅河を見学。そこは清らかで川幅も大きい河で砂もきれいで海辺を想像させる様でした。この後、次の目的地ガンジス河が流れるベナレスに向かいました。
早朝よりホテルを出発し、ガンジス河に向かいました。到着し二船に分乗し、今回のもう一つの目的のガンジス河での「船上施餓鬼法要」を営む為に準備にとりかかりました。皆様よりお申し込み頂きました追善散華も千六百体を越え、沢山のお申し込みに心より感謝しております。法要が始まり、お題目と共にまかれる散華は、濁れるガンジス河の水に色鮮やかに浮かび、幻想的な雰囲気の中で厳しゅくに営まれました。団員の方々も涙ながらに「こんなに有難い供養は初めてでした」と大変感動されていました。ガンジス河での法要が終わり、次なる聖地、お釈迦様が初めて法を説かれたという初転法輪の地、サルナートに向かいました。この地は鹿野苑とも言われており昔は鹿が沢山いたそうです。ここは成道なされる前にに苦行を共にした五人の比丘に成道後初めて法を説かれたという地ですが、その説法の場所はきれいに整備され公園化してあります。
この日は、ベナレスからお釈迦様がご入滅なされたクシナガラへの移動となり、長時間のバスの旅となりました。午後二時頃クシナガラに到着し、涅槃なされた場所へ参拝。そこには涅槃寺と言われるお堂があり、その中に十メートルをこす大きな金色の涅槃像が横たわっていました。涅槃像をお参りし、お堂を出て裏の方へ回りました。お堂のすぐ裏には、お釈迦様のレンガ造りのストゥーパが建っており、厳密に言いますとそのストゥーパの所でお釈迦様は涅槃されたとの事でした。そして又、我々が驚いたのは、お釈迦様のストゥーパの横に何と提婆達多のストゥーパが祀ってあった事です。提婆品の中で罪深い提婆でしたが、お釈迦様は提婆こそ私の師匠であり、提婆がいたればこそ自分は成仏出来たのだと説かれておられます様に、その教えそのもの通りにお釈迦様の隣に祀ってある事に感激を覚えました。
クシナガラからお釈迦様の誕生の地ルンビニーへ向かいました。到着後マヤ堂と言われる小さなお堂に入り、お釈迦様がお産れになった場所に眼を向けますと、金色の小さな誕生仏の像が安置してありました。そして、マヤ堂の近くに出産されて産湯を使われたという池もありました。
ルンビニーからお釈迦様が出家されたというカピラ城があるバルランプールへ向かいました。大平原の中にカピラ城はありましたが、お城の遺構の他に本当のお釈迦様の舎利があったというストゥーパもありました。しかし、カピラ城は、ネパールにもあるという事で今現在どちらが本当なのか結論は出ていないそうです。この後、お釈迦様が信者から寄進を受けた修行の道場、祇園精舎跡に参拝。ここもきれいに整備され、緑の中にあるのどかな所で、お釈迦様がお住まいになったという香堂跡に参拝した時には、お釈迦様の息遣いが聞こえてくる様でした。
以上がインドの仏跡のみのご報告です。
まだまだお伝えしたい感動も沢山あるのですが、紙面の都合でほんの一部しか語られず残念に思います。
しかし、今回のインド団参は生涯忘れる事の出来ない素晴しいものになりました。やはり実際に行って参りますと一層お釈迦様を身近に感じる事が出来、自分自身が仏教徒であり、しかも法華経に結縁を受けさせて頂いている事の有り難さに唯々感謝せざるにはおられませんでした。その中でも霊鷲山に参拝させて頂いた感激は何ものにも代えられません。この度は、団員の皆様、県内外のご寺院様や檀信徒のご協力ご支援を頂き無事に円成出来ました事、この紙面をおかりし心より御礼申し上げます。
"誓願の燈、全国へ"
「中央大会 発願の集い」
五月二十八日、横浜アリーナにて立教開宗七百五十年へ向けた「中央大会−発願の集い−」が、全国より一万三千人の檀信徒を集め、岩間湛正宗務副総長の開会宣言により厳修された。
全国より選ばれた和讃講中二千五百人(県内より二十人)による和讃奉修にはじまり、田中日淳管長猊下を先頭に百人の式衆が入場し大法要が開式、読経に入り田中管長猊下が、「立教開宗七百五十年に向かい、日蓮大聖人の誓願を受け継ぎ、強盛なる菩提心をおこして法華経・お題目を一心に唱え弘めん。我等一同信行修行に励み、社会の平和と人類の幸福に尽さん……」との慶讃文を奉読され、続いて三百人の修法師による加持祈祷が行われた。その後中央壇上ご本尊に向かい各教区檀信徒代表が一人ずつ各々の想いを日蓮聖人に誓い、九州教区代表、小野敏昭氏も「親から子へ家庭信行を更に充実させたい…」との発願宣言を行った。そして二百余名の青年僧行脚隊が会場に響きわたる力強い太鼓とお題目の声高らかに入場し会場一体となった唱題が続いた。最後に日蓮大聖人、立教開宗の誓願を受け継ぎ、更に広く伝える証として「誓願の燈」とお題目の旗が各管区代表の青年僧に手渡され、感動のフィナーレを迎えた。
全国各地より集まった一万三千人の檀信徒(佐賀からも百二十人が参加)は、深い感銘を胸に更なる信心増進と、お題目の広宣流布を誓った。