本弟子

本弟子・六老僧について説明いたします。

生涯を法華経の弘通に捧げられた日蓮聖人は弘安五年(一二八二)九月八日、九ヵ年の間住みなれた身延山を下山、同月一八日千束池上の地、池上宗仲の館に入られ、ここを臨終の地と定められました。翌月十月八日「本弟子」六人を定めて聖人御入滅後の教団の運営、門下の育成を委ねられました。日興上人が執筆された『宗祖御遷化記録』に「十月八日本弟子六人を定め置かる、此状六人面々に帯すべし云々日興一筆也」とあります。

その「定」の文は、

一弟子六人事 不次第

一 蓮華阿闍梨日持

一 伊與公 日頂

一 佐渡公 日向

一 白蓮阿闍梨 日興

一 大国阿闍梨 日朗

一 弁阿闍梨 日昭

右六人者本弟子也、仍て向後の為定むる所件の如し。

弘安五年十月八日

と認められています。冒頭に書かれている「一弟子」とは第一の弟子・長老の事で、「本弟子」と同意です。

また「定」には「不次第」とありますが、六人の年齢を見ると、このとき日持上人は三三歳、日頂上人は三一歳、日向上人は三〇歳、日興上人は三七歳、日朗上人は三八歳、日昭上人は六二歳で、年齢的には不次第ですが、その記載の順序は入門・法臈(法の上での年齢。出家してからの年数)の年序次第をふんでいます。ですから、不次第とは年齢に関するものでなく、一弟子・本弟子として門家の法灯継承者として仰がれるものであるから区別をするべきでないというところから「不次第」と記されているのでしょう。

これら六人の本弟子はそれぞれ、相模(神奈川県)の鎌倉、武蔵(埼玉県周辺)、上総(千葉県中部)、下総(千葉県北部)、安房(千葉県南部)、甲斐(山梨県)、駿河(静岡県中部)、佐渡など各地で日蓮聖人の教えの継承とその伝播に努められ、布教活動を展開されました。

また、本弟子は六人おられたので、後世には「六老僧」と称されるようになり、その系統を「六門跡」と呼ぶ事もあります。

このように、本弟子とは日蓮聖人より直接教えを受けた方であり、その教えを広く伝え、教団を護られた方々です。

「伝える」事がなければ、いつかは消滅していきます。現在の日蓮宗があるのは、日蓮聖人は基より、六老僧を始め、教えを脈々と伝える方々がおられたからです。私達も、日蓮聖人の教えを後世に伝えるべく、信行に励まなければなりません。

大成弁阿闍梨日昭上人

日昭上人は字を弁また大成弁阿闍梨と言い、不軽院と号されました。日蓮聖人門下の本弟子の中の筆頭に挙げられ、日蓮聖人より一歳年上です。

承久三年(一二二一)、下総(千葉県)海上郡に印東祐昭の次男としてお生まれになりました。日蓮聖人龍口法難の折牡丹餅を供養された妙一尼が母と伝えられています。日昭上人の妹の子が日朗上人で、叔父・甥の関係になります。

日昭上人は十五歳の時、地元の天台宗寺院で出家され、字を成弁と称されました。後に比叡山へ登り尊海法印に就いて修行なされました。この頃、京都、奈良、比叡山と諸寺を訪ね遊学研鑽をなされていた日蓮聖人と出会われ、共に学ばれたと伝えられています。

日蓮聖人が立教開宗の後、鎌倉にて御題目布教をなされていると聞いた日昭上人は、比叡山を下り、日蓮聖人の弟子となられました。

やがて日蓮聖人に対する幕府の弾圧が厳しくなり、龍口法難・佐渡流罪に処せられ、ほとんどの弟子・信徒が御題目信仰から退転するなか、日昭上人は鎌倉浜土の住坊で懸命に門下を支え、布教に従事されました。このころ住坊を持つ弟子は少なく、多くの人に法華経を説き伝える道場として大切な役割を果たされていました。

さらに日蓮聖人は身延入山後の弘安三年(一二八〇)日昭上人に非常に大きな曼荼羅を授与されています。日蓮聖人はこの曼荼羅が日昭上人の住坊に安置され人々の信仰対象となる事を予測して書かれたのでしょう。弘安七年(一二八四)にはこの住坊を改め一寺を建立して法華寺と称しました。

また、日蓮聖人は、日昭上人を「弁阿闍梨」「弁殿」と尊称しておられた事からも、日昭上人がいかに法華経を弘める高弟として認められていたかが推察できます。

日昭上人は晩年、越後の領主風間信昭の外護を受け、徳治元年(一三〇六)相模(神奈川県)に妙法寺を建立され、翌二年には弟子の日成上人に譲り、住坊浜土の法華寺を弟子日祐上人に付属され、元亨三年(一三二三)、百三歳の長寿で入寂されました。

日昭上人の入寂後まもなく、風間信昭は領地の越後の村田に移る事によって同地に妙法寺を移し日成上人もこれに赴かれ、教線の拡張に専念されました。浜土の法華寺は、津波、兵乱などによって移転を繰り返し、文禄三年(一五九四)には伊豆の玉沢へ移りました。現在の妙法華寺がそれです。

日昭上人の法脈を継承する門流を「日昭門流」または「浜門流」と言います。

白蓮阿闍梨日興上人

日興上人は、甲斐国(現在の山梨県)鰍沢に寛元四年(一二四六)三月八日、お生まれになりました。幼くして父を失いましたが、母が駿河国(現在の静岡県)河合の領主・由比氏の娘であったため、幼少時代を由比氏の元で過ごしました。

七歳の時、駿河岩本実相寺に入門し、十二歳の時にお寺に訪れた日蓮大聖人とお弟子の日朗上人の学識の高さ、人格の素晴らしさに惹かれ、入門の志を起こされたと伝えられています。日蓮大聖人に弟子入りなされた時期には諸説があり定かではありませんが、文永二(一二六五)年の日興上人が十九歳前後の頃であったろうと考えられています。この時、大聖人から「伯耆坊日興」と名付けられました。大聖人が佐渡に流罪に処された時もそれに随行し、現地での布教に尽力なさっています。

日蓮大聖人は弘安五(一二八二)年に現在の東京・池上本門寺にて御入滅なさいますが、その前に日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の六人の高弟達を本弟子に定め、後事をこの六老僧に託されます。「御遺物分配」では「御足袋・烏帽子・小袖一」を配分されています。日興上人は「白蓮阿闍梨日興」と号し、六老僧の第三に推されました。日蓮教団の基盤は、この六老僧の集団指導体制を中心に築かれていきます。六老僧達は、交替で日蓮大聖人の墓所を守る輪番制度を取り決めます。これは各自がそれぞれの布教先で弘通に励みつつ、交替で定められた期間、身延山の大聖人の墓所に仕えるというもので、教団の結束を固めるための具体的な方法でした。

しかし、全国各地で布教活動を行なっていた六老僧たちにとっては、短期間とはいえ身延山常駐はかなり大変なことでした。そのため、大聖人の御入滅からわずか三年目にはもっぱら地元の日興上人が常住し、祖廟の給仕にあたられました。

さらに、この結束を破綻させる出来事が起こります。身延山久遠寺を開基した波木井実長の神社への参拝を、法華経信仰に対する不純行為であり、絶対に容認できないと日興上人が強く諫められたのです。

これがもとで波木井実長と日興上人はたびたび意見の衝突を繰り返すようになりました。そしてついに日興上人は正応元(一二八八)年に弟子を引きつれ身延山久遠寺を去ります。正応三(一二九〇)年、現在の日蓮正宗の総本山である富士大石寺、そして永仁六(一二九八)年、現在日蓮宗の七つの大本山のひとつにかぞえられる重須本門寺を開かれました。日興上人はこの本門寺を本門の戒壇の建設運動の根本道場と定め、教育機関研究所「重須談所」を開設し弟子の育成に挺身され、正慶二(一三三三)年、八十八歳で入寂されました。

日興上人の離山は日蓮教団の初めての分派であり、日興上人の弟子達はのちに富士門流(日興門流)と名乗ります。

大国阿闍梨日朗上人

日朗上人は、寛元三年(一二四五)四月八日、下総(千葉県)にお生まれになり、幼名を「吉祥麿」と呼ばれました。建長六年(一二五四)より日蓮聖人の教えを受け、文応元年(一二六〇)に出家なされたと伝えられています。

日蓮聖人のお膝元、鎌倉で教えを弘められ、日蓮聖人に孝養を尽されたので、「日蓮の行くところ、常に日朗あり」といわれ、「師孝第一」と称されるようになりました。

文永八年(一二七一)日蓮聖人が龍口法難・佐渡流罪に処せられた時、多くの門弟も弾圧を受けましたが、日朗上人はじめ五人の弟子・檀徒が、鎌倉の長谷の「土の籠」に幽閉されました。この入牢から、日朗上人が当時の門弟中、いかに際立った存在であったかが推察され、またこれは、日朗上人が法華経を身にも心にも読み、実践されたお姿と言えます。この時、日蓮聖人は相模の依智より『五人土籠御書』というお手紙を送られ、五人の身を案じられました。この入牢中、監督官であった宿屋光則は、彼らの日々の行儀を見聞するうち、とくに日朗上人の行儀に感銘し、日蓮聖人の佐渡赦免の後になって日朗上人に帰依しました。後年更に日朗上人の弟子となり、自邸を投じてお寺とし、父行時と自身の名をとって行時山光則寺と称したと伝えられています。

鎌倉比企谷に日蓮聖人が開かれた法華堂があり、日朗上人がその後を継いで長興山妙本寺と名付けられました。日朗上人はここを本拠として、日蓮聖人入滅後における鎌倉の僧侶や信者を指導し統率されました。

日朗上人は日蓮聖人生前から、武蔵国池上郷の地頭池上宗仲公と交渉がありました。その縁で日蓮聖人滅後、宗仲公は日朗上人を師と仰ぐ檀越になったと考えられています。この師檀両者が協力して日蓮聖人示寂の地、池上に法華堂を創立したのが、池上本門寺のはじまりです。同寺の日蓮聖人御影像胎内の聖人遺骨を納める唐金筒の銘に「大別当 大国阿闍梨 日朗」、「大施主 散位大仲臣宗仲」等と記されています。別当とは堂または寺院の最高主管者の呼称です。

下総平賀にも日朗上人に関係のある法華堂がありました。同地の日礼上人は地蔵堂を改めて法華堂とし、日朗上人を請じました。日朗上人は弟子の日伝上人に、この法華堂の管理を任されました。のちの本土寺がこれです。

比企谷の長興山妙本寺・池上の長栄山本門寺・平賀の長谷山本土寺の三寺はのちに三長三本と称せられ、日朗門流の三大拠点であったのです。

こうして、日朗上人は三寺を形成され、教線を伸張されたばかりでなく、弟子の育成にも努められました。弟子の最たる者を、古来、朗門の九鳳・九老僧と称しています。日像上人・日輪上人・日善上人・日典(伝)上人・日範上人・日印上人・日澄上人・日行上人・朗慶上人の九名がそれです。日像上人は、日朗上人に就きましたが、晩年の日蓮聖人にも就学し、のち京都に教えを弘めていきました。

日朗上人は元応二年(一三二〇)、七十六歳で御遷化なされました。忌日は一月二十一日と伝えられています。

蓮華阿闍梨日持上人

日持上人は駿河国(静岡県)松野に松野六郎佐衛門尉の次男として生まれ、幼名を松千代といいました。七歳で天台宗の岩本実相寺(現在は日蓮宗由緒本山)に入り、のちに比叡山で修学されました。ことに文筆、歌道に長じていたといわれています。実相寺の法兄に伯耆坊(のちの日興上人)がおられ、文永七(一二七〇)年その縁で日蓮門下に参じ、甲斐公また日持と名付けられました。

入門から一年後日蓮聖人と共に佐渡に流され、身延入山の際にも大聖人に侍し、主に故郷である駿河方面の布教に従事します。御遺文に頻出する松野一族を教化したのは日持上人の功績が大でした。若くして文筆にすぐれていた日持上人は「持妙法華問答鈔」を叙作し大聖人がこれを印可したと伝えられ、大聖人御遺文に収録されています。大聖人が口述して弟子に筆記させた例は他にもありますが、著述の代作印可は日持上人ただ一人しかいらっしゃいません。

こうして非凡な学才と信念の強固さを見込まれ、宗祖の臨終には末席ながら本弟子六老僧のひとりに加えられました。

「御遺物分配」では「小袖一枚・手鉾・馬」を配分されています。大聖人御廟所守護の輪番は五月を担当されました。

正応元(一二八八)年、宗祖第七回忌報恩の際、臨滅の聖地・池上本門寺に大聖人等身大の座像を造立、これが宗祖の容貌をもっともよく伝えているとして広く信仰を集め、現在国宝に指定されています。

自らが開創した松野の蓮永寺で永仁二(一二九四)年、宗祖の十三回忌法要を営んだ日持上人は、身延山の宗祖の御廟所に詣で、そこで国内布教の基盤を他の本弟子に任せ、自らは「東方より興りし仏法月氏へ帰る」という宗祖の宿願であった中国・インドへの広宣流布を果たさんとする旨を誓願なさったのです。

翌永仁三年正月一日、日持上人四六歳のとき高弟日教を後任とし、門人たちの見守る中、単身、北方を目指し弘通に立たれます。それは同時に死出の旅でもありました。数少ない残された事跡から日持上人のたどられた足跡を推測すると、山形、秋田を経て、青森県黒石市に法嶺院を、青森市内に蓮華寺を開創、その後、蝦夷(現在の北海道)に渡り、函館に妙応寺、松前に法華寺、椴法華村に妙願寺を開かれました。ほかにも、江差や上ノ国など北海道の南部には各地に日持上人にまつわる伝承が現在に多く残されています。

椴法華村から舟で大陸にわたり、旧満洲を経て蒙古でご逝去なされたという説が有力ですが、はっきりとしたことはわかりません。宗門内では長く布教進発の日が日持上人の命日とされていました。しかし昭和四六年に中国北京の西北に位置する宣化市から日持上人の遺品が出土します。そこに記された日付によれば、元の大徳二(日本では永仁六・一二九八)年に宣化市の法華寺安国堂に入り、大徳八(一三〇四)年まで当地にて布教を続けていたらしいということがわかっています。最終的に仏教発祥の地インドへの布教を目指されていたことは間違いないでしょう。

伊予阿闍梨日頂上人

日頂上人は建長四年(一二五二)、駿河の国重須に生まれ、幼い頃に父を亡くされましたが、母である妙常尼が富木常忍(常修院日常上人)と再婚されたので、その養子となられました。当時は天台宗であった真間山弘法寺で出家され、十五歳の時に富木氏の縁によって日蓮聖人の弟子となられました。また、弟の寂仙房日澄上人も出家され、日向・日興上人に師事されています。

日頂上人は日蓮聖人の佐渡流罪中も身延入山後も日蓮聖人に仕えられ、学問に精進され、日蓮聖人は日頂上人の資質を高く評価されておられました。

一方、富木氏は日蓮聖人の弟子として、下総で千葉市の一族や家臣とともに日蓮聖人の教えを弘められ、弘安元年(一二八六)には天台宗の僧侶を論破して真間山弘法寺を我が宗に改宗せられ、日蓮聖人のご入滅の後には若宮に法華寺(現在の中山法華経寺)を建立され、教団の体制を整えておられました。やがて日頂上人も弘法寺に入山されますが、永仁三年(一二九五)日蓮聖人の教えを一人でも多くの人に弘めるべく、筌谷(千葉県松戸市)に移られ布教活動を行うようになられます。しかし日常上人はこれを快くは思われず、両者の関係が悪化して、ついに日頂上人を勘当され、下総から追放してしまわれます。日常上人は永仁七年(一二九九)にお亡くなりになられますが、日頂上人の勘当を許される事はありませんでした。

勘当の理由には、若宮の法華寺で日蓮聖人の三回忌法要が行われた時、日頂上人が宗論のため遅れられたという説をはじめ論説がありますが、日頂上人が下総から疎外された理由は明確ではありません。

日頂上人は筌谷で、日常上人の菩提を弔われ、正安元年(一三〇〇)、後事を弟子の日宣上人に託して、故郷の重須に退かれ、文保元年(一三一七)、六十六歳で亡くなられたと伝えられています。

佐渡阿闍梨日向上人

日向上人は建長五年(一二五三)、上総国藻原(現在の千葉県茂原市)で生まれました。しかし一〇歳の時重い病に罹り、薬石の効なく、そこで父母は安房の千光山に虚空蔵菩薩を祈り、もし助かったならば出家させようと誓ったところ、たちどころに治ってしまいました。そこで比叡山高乗院に投じましたが、文永元年(一二六四)日蓮大聖人が安房に帰って母を見舞った折、日向上人の父実信が大聖人の父重忠と友人である縁によって大聖人と師資の契を結び、翌年使を遣わして日向上人を召し返し、大聖人の下に投じたといいます。時に日向上人は一三歳でありました。日向上人は日蓮大聖人に常随給仕して行学に励み、論議第一と言われました。大聖人佐渡流罪中も大聖人に随って佐渡に至り、給仕の誠をつくしたと伝えられます。佐渡流罪赦免後、身延に隠栖した日蓮大聖人は、やがて弟子の育成と檀越の指導に力を傾注していったのでありますが、そこで遠方に居住する檀越と大聖人との間を繋ぐ役割を果したのが、大聖人から檀越へ、檀越から大聖人へ届けられる書状でした。そしてこのような書状を運び、両者の連絡にあたったのが日向上人らの弟子であります。

日向上人は大聖人の書状の中で「さど房」「さど殿」「佐渡公」と呼ばれておりますが、その書状によって示される大聖人の教えを遠隔地にいる檀越に伝えたりしながら、地方在住の人々を指導する任にあたりました。

建治二年(一二七六)のこと、日蓮大聖人の師であった道善房が清澄で亡くなりました。大聖人は「知恩報恩」の大切さを述べられた『報恩抄』を著し、大聖人自身は遁世の身でありますので、この時使者として『報恩抄』を携え清澄に赴き墓前に供えて読誦したのが日向上人であると言われています。日蓮大聖人は示寂に先だつ一〇月八日、本弟子六人を定め、日向上人もその一人でありました。大聖人滅後、遺骨を身延山に納め、遺言によって六老僧が交替で守りました。藻原法華堂(妙光寺、今の藻原寺)を根拠地として上総一帯の教化にあたっていた日向上人もほどなく身延に登山し、日向上人が身延と藻原を兼ねて、その経営・教化にあたることになりました。日向上人は身延に住し、藻原妙光寺を丹波公日秀に付してその地の教化をゆだねました。身延山の基礎を固め、身延に有ること二六年、正和二年(一三一三)後事を弟子三位房日進上人に托して退隠し、藻原に余生を送り、翌三年九月三日六二歳をもって亡くなりました。